上海派遣軍 諸部隊

「証言による「南京戦史」」『偕行』掲載資料 上海派遣軍 諸部隊
戦車第1大隊
・城島赳夫 戦車第1大隊第1中隊 中隊長
・村門・榎 戦車長
・中山重夫 戦車第1大隊 段列
独立軽装甲車第2中隊
・畝本正巳 独立軽装甲車第2中隊 小隊長
・奥秋国造 独立軽装甲車第2中隊 上等兵
・藤田清 独立軽装甲車第2中隊本部 曹長
独立軽装甲車第6中隊
・井上直造 独立軽装甲車第6中隊
独立軽装甲車第7中隊
・戦記
・渡辺末蔵 独立軽装甲車第7中隊 上等兵
・亀田三千男 独立軽装甲車第7中隊 段列 軍曹
野戦重砲兵第10連隊
・樫木義雄 野戦重砲兵第10連隊 観測係 伍長
独立野戦重砲兵第15連隊
・佐々木孟久 独立野戦重砲兵第15連隊第2大隊 大隊長
独立攻城重砲兵第2大隊
・沢田正久 独立攻城重砲兵第2大隊第1中隊 観測班長 歩兵中尉
第2野戦高射砲司令部
・石松政敏 第2野戦高射砲司令部 副官
独立気球第2中隊
上海派遣軍司令部郵便業務
・佐々木元勝 上海派遣軍司令部 野戦郵便長

 

【 関連資料 】

・上海派遣軍 司令部
・上海派遣軍 部隊編成

「証言による「南京戦史」」『偕行』掲載資料

戦車第1大隊
城島赳夫 戦車第1大隊第1中隊 中隊長
南京市街重要施設要図 難民区立入禁止区域 外国権益要図 p.11掲載 (第2回 p.13 1段)
証言 12/10麒麟門・馬群、12/11孝陵衛 (第4回 p.9 2段)
証言 馬群―中山門の死体遺棄状況 (第4回 p.9 4段)
証言 中山路・中央路で戦車が死体を踏みつぶすようなことはしていない (第7回 p.9 4段)

村門・榎 (所属部隊の記述なし、※戦車第1大隊と思われる) 戦車長
証言 12/14掃討、中山路十字路で敗残兵より射撃を受ける、中山北路の中国通信隊兵舎で約150名を捕虜とする、 草場軍曹の言として漢西門外で中国兵80名を機関銃で射殺 (第7回 p.9 2段)

中山重夫 戦車第1大隊 段列
目撃談 毎日新聞(S58.8.4)・朝日新聞(S59.6.23夕刊)に記事掲載、『証言・南京大虐殺』(青木書店、S59)掲載、雨花台にて投降した中国兵を銃剣で殺害 (第8回 p.11 1段)

独立軽装甲車第2中隊
畝本正巳 独立軽装甲車第2中隊 小隊長

回想 11/25 湖州入城の状況(第回 p.29 4段)
回想 12/1下泗安付近で敗残兵約400名の襲撃を受ける(第1回 p.30 4段)
「攻略要領および注意事項」を第一線部隊へ伝達(第3回 p.9 1段)

奥秋国造 独立軽装甲車第2中隊 上等兵
証言 南京へ向かう追撃戦の際に便衣の敗残兵と戦闘となる(第1回 p.30 4段)

藤田清 独立軽装甲車第2中隊本部 曹長
証言 雨花台北麓の兵技専門学校(兵工廠)における焼死体400-500体(第2回 p.14 3段)
証言 雨花台での戦闘状況、雨花台北麓の兵技専門学校(兵工廠)における焼死体400-500体、非戦闘員の死体を見なかった(第3回 p.12 2段)
証言 12/12中華門の戦闘、南京後雨花台山麓の兵技専門学校(兵工廠)に死体400-500体、12/14中隊宿舎を捜す為城内を探査する、中国赤十字会員(紅卍字会か)を見る、12/15サイドカーで城内の軍司令部へ行く、その後、下関へ行き数千の死体を見る、?江門付近の死体は少なかった、12/21中隊は軍官学校教導隊校舎へ移転、女性への暴行は多少あった(第6回 p.5 4段)
証言 12/15下関にて「全くの焼野原で死屍累々」、死体は揚子江中流に流す予定、死体数数千体と推測(第9回 p.8 2段)
証言 12/21中隊は城内軍艦学校教導隊校舎へ移転、特務機関・紅卍字会により城内整理が進捗、隊で2名夜間に抜け出し「女遊び」に出た、城内飛行場付近に慰安所があったと記憶、強姦2万件は信用できない(第11回 p.11 3段)
証言 強姦があったのは軍慰安所開設までの僅かの期間ではないか(第11回 p.12 3段)

独立軽装甲車第6中隊
井上直造 独立軽装甲車第6中隊

述懐 ※竹下栄蔵同中隊上等兵の陣中日誌を読んだ井上氏が書き残したもの、金壇で部下の上等兵が誤解による強姦容疑で憲兵に拘留され、被害者に誤解を説くため金品を払ったことで不起訴となった(第11回 p.12 4段)

独立軽装甲車第7中隊
戦記 常熟戦、無錫戦(第1回 p.29 4段)

渡辺末蔵 独立軽装甲車第7中隊 上等兵
12/10光華門攻撃、12/13城外防空学校から七甕橋・高橋門・麒麟門・中山門道抜け中山門より入城、12/14掃討、城内飛行場付近で20〜30名を捕虜とし兵站(収容部隊)へ引き渡す、12/15歩兵第7連隊に配属され掃討、司法院を宿舎とする(第7回 p.10 2段)

亀田三千男 独立軽装甲車第7中隊 段列 軍曹
※昭和59年1月29日全国セトミ会で語った体験談 昭和13年6月頃南京捕虜収容所で衛兵指令伊藤秀次中尉のもとで警備にあたった、その際、ある一等兵が勤務放棄で憲兵に検挙、代々木刑務所で2年の刑に服す事件が発生(第11回 p.13 2段)

野戦重砲兵第10連隊
樫木義雄 野戦重砲兵第10連隊 観測係 伍長

証言 第9師団協力、12/9光華門付近工兵学校にて観測、12/13正午観測班南京入城、死体は10-20体確認、城外約10キロ後方輜重学校に駐屯(第7回 p.5 4段)

独立野戦重砲兵第15連隊
佐々木孟久 独立野戦重砲兵第15連隊第2大隊 大隊長

12/9南京城外 射撃禁止区の指定、紫金山・天文台の砲撃、12/11・12城壁射撃、南京占領後は城内軍官学校に駐屯(第6回 p.5 3段)

独立攻城重砲兵第2大隊
沢田正久 独立攻城重砲兵第2大隊第1中隊 観測班長 歩兵中尉

証言 12/13仙鶴門鎮の戦闘、中国兵が投降、捕虜とする(第5回 p.7 1段)

第2野戦高射砲司令部
石松政敏 第2野戦高射砲司令部 副官

証言 太平門外の死体数は「千にも足らなかった」、門外の濠に死体を入れて埋めた、門正面の城壁曲折部に約100体の死体(戦闘によるものと推定)、鶏鳴寺高地に中国軍高射砲陣地・防衛司令部があった(第9回 p.8 4段)
述懐 南京大虐殺の問題点は便衣兵の処分、難民区での憲兵による便衣兵摘発、在留外国人に知られずに大虐殺は出来ない、下関の多数の死体は戦闘によるもので捕虜ではない、下関で殺害されたのは摘出された便衣兵、下関の3つの桟橋で縛られた便衣兵が殺害されるを目撃、これを捕虜殺害という噂となり南京虐殺となったと推測(第11回 p.9 3段)

独立気球第2中隊
気球観測による交通遮断射撃、(第5回 p.10 4段)

※ 「第三十七(砲兵) 気球観測ノ利用ニ依リ退路遮断に成功シタル戦例」
『小戦例集 第三輯』(昭和15年、教育総監部編 軍人会館出版部出版) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452188

独立軽気球第2中隊

上海派遣軍司令部郵便業務
佐々木元勝 上海派遣軍司令部 野戦郵便長

日記 12/16麒麟門先に武装解除された4000名の兵を目撃、軍政部の通りで2-3万名の中国兵を殲滅・一時に掃射したと推定する跡を目撃(後に誤断とする)、揚子江岸で「無数」の中国兵死体を目撃、馬群で武装解除・後ろ手に縛った200名の捕虜を刺殺、既に埋められた後を目撃(麒麟門での敗残兵との戦闘にける捕虜)、南京での捕虜は4万2000名と聞く、揚子江河岸からの帰りに捕虜(摘出された便衣兵か)の大群を連行中の部隊と遭遇、全て殺害すると聞く、埠頭で2000名の捕虜(後ろ手に縛る)殺害、馬群で女性捕虜を凌辱した話を聞く、12/17「上海兵站部」の日本兵が老人の市民を射殺、軍政部前の軍服の散乱は便衣に着替える為だったと思われる、揚子江岸で捕虜2000名殺害の跡を目撃、実際に射殺している状況を目撃か、12/17入城式後に後手に縛られた敗残兵を青龍刀で殺害する状況を目撃、夕方、中山門前で武装解除された中国兵7200名と遭遇、引率将校は殺害するだが当面警察署に留置する予定と話す(第9回 p.10 3段)