第13師団戦闘詳報戦闘に関する教示 (昭和12年10月9日付)
別紙第七 軍事機密 昭和十二年十月九日
戦闘に関する教示(続其二)
第十三師団司令部
(以下、抜粋)
十一、捕虜ノ取扱ニ就テ
捕虜ノ利用取扱等ニ関シテハ昨八日師団情報収集要領ニ於テ指示セシモ多数ノ捕虜アリタルトキハ之ヲ射殺スルコトナク武装解除ノ上一地ニ集結監視シ師団司令部ニ報告スルヲ要ス又捕虜中将校ハ之ヲ射殺スルコトナク武装解除ノ上師団司令部ニ護送スルヲ要ス此等ハ軍ニ於テ情報収集スルノミナラズ宣伝ニ利用スルモノニ付キ此ノ点部下各隊ニ徹底セシムルヲ要ス但シ少数人員ノ捕虜ハ所要ノ尋問ヲ為シタル上適宣処置スルモノトス
「第13師団戦闘詳報別紙第1〜第54(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C11111762700 (簿冊「第13師団上海附近の会戦 戦闘詳報 別紙及附図 昭和12年10月1日〜12年11月1日」)
吉田矩 第13師団 参謀(作戦) 工兵中佐
[証言]
pp.34-35
(K-K註:山田栴二メモ(鈴木明『南京虐殺のまぼろし』より)12月15日〜20日を引用の後)
十五日、十六日と捕虜のことでしきりと折衝している。本間少尉が行ったのは鎮江で、そこから師団司令部へ電話があった、と吉原参謀は語る。『荻洲師団長と相談の上、崇明島へ送って自活させたらどうか、と答えた。船は鎮江で使ったものを回航すれば良い。時間は多少かかるが軍司令部と相談せよ、と言ってやった』『人数は、はっきり覚えていないが、ともかく大変な数だとのことだった』『処分せよ、と言ったおぼえない。』」(K-K註:最後の”」”は原文通り、意図は不明)
十六日以降は、上海派遣軍司令部との交渉になったようだ。そして「殺してしまえ」と指示(命令ではない)したのは、情報(第二課)主任参謀であった長勇中佐、というのが定説で、吉原氏も積極的な否定はしない。
板倉由明 「「南京大虐殺」の真相―上元門事件の研究―」(『じゅん刊世界と日本』1984年4月5日号 No413)pp.34-35
[証言]
また当時第十三師団作戦主任参謀であった吉原矩大佐の回想では、荻洲師団長と相談のうえ「崇明島に送って自活させよ」と指示した、というから、崇明島は記憶違いとしても、草鞋洲(八卦洲)への釈放は第十三師団司令部では了解していたことと思われる。
『南京戦史資料集1』p.661
[証言]
昭和五十八年に著者が聴取した、当時第十三師団作戦参謀・吉原矩中佐の証言によれば、鎮江で渡河準備中の師団司令部では、「崇明島」に送り込んで自活させるよう命じたという。崇明島は揚子江河口の島だが、草鞋洲との記憶違いとすれば、正に「島流し」(栗原スケッチの題)である。「殺害命令は長中佐が独断で出したと言われますが」と筆者が水を向けたのに対し、吉原氏が横を向いて、「長はやりかねぬ男です」と言った暗い顔が今も印象に残っている。
『本当はこうだった南京事件』p.143
第13師団歩兵第116連隊 劉家行西方地区ニ於ケル戦闘詳報
もう一つは第十三師団の歩兵第百十六連隊の戦闘詳報で、「俘虜准士官下士官兵二九」として、「俘虜ハ全部戦闘中ナルヲ以テ之ヲ射殺セリ」(歩兵第百十六連隊「自昭和十二年十月二十一日至昭和十二年十一月一日劉家行西方地区ニ於ケル戦闘詳報」)とある。
秦郁彦『南京事件 増補版』p.68
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