極東国際軍事裁判所判決文
A部 第三章 日本の負担した義務及び取得した権利

〈説明〉

本資料は、極東国際軍事裁判所判決文における A部 第三章 日本の負担した義務及び取得した権利 を文字起ししたものである。原典は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている「極東国際軍事裁判所判決〔第1冊-第13冊〕A部 第一章-三章」の49コマ~101コマである。
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<見出し>

第三章要約
一九二八年一月一日以前の諸事件
一八九四―五年の日清戦争
第一回ヘーグ平和会議
一八九九―一九〇一年の義和団事件
日露戦争
ポーツマス條約
北京條約
南満洲鉄道会社
中国における門戸開放主義
一九〇八年の日米同文通牒
韓国併合
中国と日本の主張の対立
二十一カ條要求、一九一五年の中国と日本の條約
一九一七―一九二〇年の連合諸国のロシアに対する干渉
一九二五年の日ソ北京條約
一九一九年の講和條約
国際連盟規約
太平洋諸島の委任統治
一九二二年の日米委任統治條約
ワシントン会議
一九二一年の四国條約
オランダとポルトガルに対する四国の保証
ワシントン海軍軍縮條約
九国條約
一九一二年の阿片條約
国際連盟第二阿片会議
一九三一年の阿片條約
交戦法規
ヘーグ第一條約
ケロツグ・ブリアン條約
ヘーグ第三條約
ヘーグ第五條約
ヘーグ第四條約
ジユネーヴ俘虜條約
ジユネーヴ赤十字條約
ヘーグ第十條約
日本は国際社会の一員であつた


<本文>

極東国際軍事裁判
判決
A部
第三章
日本の負担した義務及び取得した権利

(SummaryE-1)

PARTA,CHAPT.Ⅲ
A部
第三章 要約((法廷デ朗読ノコト))

(法廷においては、A部第三章全文の代りに、この要約を朗読する。)
  本判決書のA部第三章は、これを朗読しないことにする。これは、起訴状に関連している限り、列強に対する日本の義務と日本が一九三〇年以前に中国において取得した諸権利との記述を含んでいる。その主要な義務は、次の諸項目に属し、各項目の下に別記してある諸文書によつて立証されている。

一、中国の領土及び行政上の独立を保全する義務。
   一九〇一年の合衆国の宣言
   一九〇八年の同文通牒
   一九二二年の九国條約
   一九二〇年の国際連盟規約
二、中国全土における平等かつ公平な商業の原則、いわゆる「門戸開放政策」を、世界各国のために維持する義務。
   一九〇〇年ないし一九〇一年の合衆国の宣言
   一九〇八年の同文通牒
   一九二二年の九国條約
三、阿片と類似の麻薬との製造、売買及び使用を禁遏する義務。
   一九一二年の国際阿片條約
   一九二五年の国際連盟規約
   一九三一年の国際阿片條約
四、太平洋に利害関係をもつ諸国の領土を尊重する義務。
   一九二一年の四国條約
   一九二六年のオランダとポルトガルとに対する覚書
   一九二〇年の国際連盟規約
(SummaryE-2)
五、中立国領土を侵害しない義務
   一九〇七年の第五ヘーグ條約
六、外交手段、仲介又は仲裁裁判によつて国家間の紛争を解決する義務。
   一九〇八年の同文通牒
   一九二一年の四国條約
   一九二二年の九国條約
   一九〇七年のヘーグ條約
   一九二八年のパリー條約
七、国際紛争の平和的処理を確保することを目的とする義務。
   一八九九年のヘーグ條約
   一九〇七年のヘーグ條約
   一九二八年のパリー條約
八、戦争開始に先だつて事前の通告をする義務。
   一九〇七年の第三ヘーグ條約
九、交戦中の人道的行為に関する義務。
   一九〇七年の第四ヘーグ條約
   一九二九年のジユネーブ赤十字條約
   一九二九年のジユネーブ俘虜條約

 これらの義務の多くは一般的なものである。これらの義務は、単に一つの政治的または地理的な単位に関するものではない。これに反して、本章で考慮されている文書によつて、日本が要求した権利は、概ね中国に関係するものであつた。中日戦争の初めに日本が中国内でもつていた足場は、本判決中の中国に関する章の冒頭で充分に述べられるはずである。

(E-38)

A部
第三部
日本の負担した義務及び取得した権利

一九二八年一月一日以前の諸事件

 一九二八年一月一日以前に、すなわち起訴状に言及されている期間の初めに、すでにある事件が発生しており、日本はある権利を取得し、かつある義務を負担していた。被告のとつた諸行動を理解し、判断するためには、それらのものを確認しておくことが必要である。

一八九四―五年の日清戦争

 一八九四―五年の日清戦争は、下関條約によつて終つたが、それによつて中国は、遼東半島に対する主権全部を日本に譲渡した。しかしながら、ロシア、ドイツ、及びフランスは、日本に対して外交的圧迫を加え、それによつて日本がこの譲渡を放棄しなければならないようにさせた。 一八九六年に、ロシアは清国と協定を締結した。この協定は、シベリア横断鉄道を満洲を縦断して延長し、同鉄道地帯において或る行政上の権利を与えるとともに、八十年間この鉄道を経営する権能をロシアに与えたものであつた。この利権は一八九八年のロシア・中国間に締結された別の協定によつて拡大された。この協定によつてロシアは ハルピンで東清鉄道を旅順と結びつける権利を認められ、また遼東半島南部の二十五カ年間の租借とその租借地における関税徴収の権利とを認められた。

第一回ヘーグ平和会議

 世界のおもな諸国は、第一回平和会議のために、一八九九年ヘーグに会合した。この会議の結果として、三つの條約と一つの宣言が成立した。
(E-39)
 この第一回平和会議の貢献したところは、常時存在していた国際法体系に新しい諸規則をつけ加えたというよりは、むしろ、すでに確立されたものと認められていた慣習法上の規則と慣行とを一層明確な形で再び述べたという点にある。一九〇七年の第二回ヘーグ平和会議と一九〇六年七月六日及び一九二九年七月二十七日にジユネーヴで採択された條約とに対しても、右と同じことをいうことができる。
 第一條約、すなわち国際紛争平和的処理條約(附属書B―一)は、一八九九年七月二十九日に調印され、日本と、起訴状を提出した各国及びその他の二十カ国とにより、またはそれらのために批准され、かつその後さらに十七カ国がこれに加入した。このようにして、全体で四十四の主要な諸国がこの條約に加入した。従つて、この條約は、後に一九〇七年十月十八日にヘーグで採択された第一條約で改廃された部分を除いて、一九〇四年二月十日の日露戦争の開始より前に、かつ起訴状に挙げられた本件に関連のある時期を通じて、日本を拘束していたのであった。
 一八九九年七月二十九日にヘーグで締結された第一條約の批准によつて、日本は国際紛争の平和的処理を確保するために全力を尽すこと、並びに、兵力に訴える前に、事情の許す限り、その交親国中の一国または数国の周旋または仲介に依頼することに同意した。

一八九九―一九〇一年の義和団事件

 一八九九―一九〇一年の中国におけるいわゆる義和団事件は、北平における最終議定書の調印によつて、一九〇一年九月七日に解決された。(E-40)(附属書B―二)。この議定書は、日本及び起訴状を提出した各国とドイツ、オーストリア・ハンガリー、ベルギー及びイタリアとにより、またはそれらのために調印された。この議定書によつて、清国は北平の外国公使館所在の区域をもつぱら各国公使館の使用に充てること、かつ、各国がその公使館を保護するために、護衛兵を置くことを認めることに同意した。清国はまた、各国が北平・海浜間の自由交通を維持するために、協定中に名を揚げられた諸地点を占領する権利を容認した。
 この議定書の調印によつて、日本は他の調印国とともに、その年の九月二十二日前に、協定の中に挙げられている地点に駐屯する軍隊を除いて、直隷省から全面的に撤兵することを約した。

日露戦争

 一九〇二年一月三十日に締結された日英同盟條約に基いて、中国における門戸開放主義の維持に関して、一九〇三年七月に日本はロシアと交渉を開始した。これらの交渉は、日本政府の思うようには捗らなかつた。そこで、一八九九年七月二十九日にヘーグで日本が調印した国際紛争平和的処理條約の諸規定を無視して、一九〇四年二月、日本はロシアを攻撃した。満洲における激戦で、日本は十万の将兵の生命と正貨二十億円を犧牲にした。この戦争は、一九〇五年九月五日のポーツマス條約の調印によつて終つた。

(E-41)

ポーツマス條約

 一九〇五年九月五日に調印されたポーツマス條約は、日露戦争を終結させ、起訴状に挙げられた本件に関連のある期間を通じて、日本を拘束していた。(附属書B―三)。この條約の批准によつて、日本とロシアは、ロシアと韓国との間の国境で、ロシア国または韓国の領土の安全を脅かすおそれのある軍事的措置は、一切これを執らないことに同意した。しかし、ロシアは日本が韓国で最高の利益をもつていることを承認した。ロシアはまた、清国が承認することを條件として、旅順口と大連とその附近の遼東半島の領土との租借権を、この租借権に関連し、またはその一部を形成する一切の権利と特権と利権とともに、さらにこの租借権の効力が及ぶ地域の一切の公共営造物と財産を加えて、日本に移譲した。この移譲は、次のような明確な約定に基いて行われた。すなわち、日本とロシアは、租借権の効力が及ぶ地域を除いて、満洲から撤兵し、満洲の全部を完全に排他的に清国の行政に還付すること、及び日本は租借地にあるロシア帝国臣民の財産権を完全に尊重することという約定である。これに加えて、長春から旅順までの鉄道及びその一切の支線並びにこれに附属する一切の権利、特権及び財産を、清国が承諾することを條件として、ロシアは日本に移譲した。この移譲は、日本もロシアも、各自の鉄道をもつぱら商業上の目的のために利用し、決して戦略上の目的には利用しないという約定に基いて行われた。日本とロシアは、これらの移譲に対して、清国の承諾を得なければならないこと、及び清国が満洲の商工業を発達させるために、列国に共通な一般的措置をとるについて、これを妨害しないことに同意した。(E-42)
 ロシアは、北緯五十度の線を境界として、サガレン島のそれから南の部分と、その線から南でその附近にある一切の島々とを日本に割譲した。この割譲は、日本とロシアがサガレン島またはその附近の島々で、堡塁やこれに類する軍事上の工作物を築造しないこと、及び宗谷海峡と韃靼海峡の自由航海を維持することという約定に基いて行われた。
 ポーツマス條約の附属議定書で、ロシアと日本は、両国の間で、満洲にある各自の鉄道線路一キロメートルごとに、十五名を超えない守備兵を置く権利を保留した。

北京條約

 一九〇五年の北京條約によつて、中国は満洲におけるロシアの権利と財産を日本に移譲することには同意したが、鉄道守備兵を置くという規定は承認しなかつた。この條約の附属書となつているところの、日本と清国が一九〇五年十二月二十二日に締結した附属協定に基いて、日本は、清国政府の表明した『切実な希望』にかんがみて、できる限り速やかに、またはロシアが撤兵に同意したときに、いずれにしても満洲の治安が再び確立されたときに、日本の鉄道守備兵を撤退することに同意した。

南満洲鉄道会社

 日本は、日本政府と日本国民だけを株主とする会社として、南満洲鉄道会社を一九〇六年八月に創立した。(E-43)この会社は、長春から旅順に至る鉄道が通つている地域に、元の東清鉄道会社の後身として設立されたものである。この会社は、ロシアから取得した鉄道とそれに附属する諸企業とを、日本が満洲で新たに設けた鉄道と企業とともに、管理する権限を与えられ、また実際にこれを管理した。そればかりでなく、租借地と鉄道附属地帯において、政府のある行政的権能を付与されていた。要するに、これは満洲における日本政府の権益を管理する日本政府の機関として、創設されたものである。
 ポーツマス條約の規定に反して、この会社の定款の規定するところによれば、右の租借地にある日本軍司令官は、軍事に関して、この会社に命令と指令を発する権限、及び軍事上必要のある場合には、この会社の業務事項に関連する命令を発する権限をもつものとされていた。

中国における門戸開放主義

 中国における門戸開放主義は、一八九九―一九〇一年のいわゆる義和団事件中に、アメリカ合衆国政府によつて、次のような言葉で、はじめて宣言された。すなわち、

『合衆国政府の方針は、清国における恒久的安寧をもたらすような解決を求め、清国の領土と行政を保全し、條約と国際法によつて友好国に保証された一切の権利を保護し、かつ世界のために清帝国の全土にわたつて平等かつ公平な通商の原則を擁護することである。』(E-44)

 日本を含めて、他の関係諸国は、このように宣言された政策に同意した。この方針は中国に関するいわゆる門戸開放主義の基礎になつた。このようにしてできた門戸開放主義は、その後二十数年にわたつて、清国の非公式な約束に基礎をおいていたが、一九二二年にワシントンで九国條約が締結されるに至つて、ついに條約の形に具体化されることとなつた。

一九〇八年の日米同文通牒

 一九〇八年十一月三十日、日本政府とアメリカ合衆国政府との間に、中国と太平洋地域における門戸開放主義に関する同文通牒が交換されたときに、日本はこれらの地域においてこの主義を承認した。
(附属書B―四)。これらの通牒の規定は、起訴状に挙げられた本件の関連のある全期間を通じて、日本とアメリカ合衆国を正式に拘束していた。この通牒交換によつて、両国は左の点に同意した。

(一)太平洋における自由かつ平穏な商業の発達を奨励する両国政府の政策は、どのような侵略的傾向にも動かされることなく、太平洋方面における現状の維持と清国における商工業の機会均等主義の擁護とを目的とすること。
(二)両国政府は、前記の方面において、相互に他方の属地を尊重すること。
(E-45)
(三)両国政府は、一切の平和手段によつて、清国の独立及び保全と同帝国における列国の商工業に対する機会均等主義とを支持し、これによつて、清国における列国の共通利益を保存する決意を有すること。及び、
(四)もし現状維持を脅かす事件が発生したときは、両国政府は、自己がとろうとする措置に関して、たがいに通告すること。

韓国併合

 日本は一九一〇年に韓国を併合し、清国における日本の諸権利を間接に増大した。それは満洲にいた韓国人の移民がそれによつて日本帝国の臣民となつたからである。一九二八年一月一日までには満洲にあつた韓国人の数は、約八十万人に及んでいた。

中国と日本の主張の対立

 予期された通り、南満洲鉄道の経営と遼東半島租借権の享有とに関連して、中国で日本が治外法権を行使したことは、日本と中国の間に絶えず摩擦を引き起した。一八九八年の條約によつて増補された一八九六年の條約で、ロシアが清国から譲与された一切の権利と特権を日本がすでに受け継いでいたこと、これらの権利の中の一つは、鉄道附属地帯内の絶対的かつ独占的な行政であつたこと、並びに、その地帯の中で、日本は警察、課税、教育及び公共施設の支配というような、広い行政権をもつていたことを、日本は主張した。中国は、このような條約の解釈を否認した。日本はまた、鉄道附属地帯に鉄道守備兵を置く権利を主張したが、この権利をもまた中国は否認した。日本の鉄道守備兵に関して起つた種々の紛議は、鉄道附属地帯内における守備兵の駐屯とその活動だけに限られていたのではなかつた。(E-46)これらの守備兵は、正規の日本兵で、しばしば鉄道附属地帯の外で演習を行つた。それらの行為は、中国側の官民にとつて特に不快であり、かれらによつて、法律上で正当化しえないものと認められ、また不祥事件の種になるものと考えていた。そればかりでなく、日本は満洲に領事館、警察を置く権利を主張した。このような警察は、ハルピン、チチハル、満洲里のような都市にある一切の日本領事館管轄区域と、朝鮮人が多数居住していたいわゆる間島地方とにあつた日本の領事館及び領事館分館に附置されていた。この権利は、治外法権に当然に伴うものと主張されたのである。

二十一カ條要求、一九一五年の中国と日本の條約

 一九一五年に、中国に対して、日本は有名な『二十一カ條要求』を提出した。その結果としてできた一九一五年の中国と日本の條約は、日本臣民が南満洲において自由に居住往来し、またどのような商工業にも従事することができると規定した。これは重要かつ異例権利であつて、條約港以外の中国領土では、日本以外のどの臣民によつても享有されていなかつた。しかも、この條約の規定の中の『南満洲』という語は、後になつて、満洲の大部分を含むものと日本によつて解釈されるようになつた。さらに、この條約は、南満洲において各種の商工業と農業に適当な建物を建設するために、日本国臣民が必要な土地を商租することができると規定していた。
 この條約が締結されたときに、両国政府の間に交換された公文は、『商租』という語に定義を与えた。中国側の解釈では、この定義には、條件附更新の権利を伴う、三十年を超えない長期賃借を意味したが、日本側の解釈では、無條件更新の権利を伴う、三十年を超えない長期賃借を意味していた。(E-47)
 以上のほかに、この條約は、日本が関東州租借地(遼東半島)を保有する期間を九十九年に延長すること、及び日本が南満洲鉄道と安奉鉄道を保有する期間を九十九年に延長することを規定した。
 中国側は、この條約は『基本的効力』を欠いていると、たえず主張した。一九一九年のパリー会議で、この條約は『戦争をもつて脅した日本の最後通牒の強制のもとに』締結されたものであるという理由で、中国はその廃棄を要求した。一九二一―一九二二年のワシントン会議で、中国代表は『この條約の衡平及び公正とその基本的効力とについて』中国代表が問題を提起した。さらに一九二三年三月に、すなわち、関東州の最初の二十五カ年租借期限が満了する少し前に、中国は日本に対してこの條約を廃止するための要求を再び通告し、『一九一五年の條約と通牒は中国における与論によつて常に非難されてきた』と述べた。中国側は一九一五年の協定が『基本的効力』を欠いていると主張していたので、満洲に関する諸規定は、情勢上それを履行することが便宜である場合を除いて、これを履行することを拒んだ。その結果として、日本が自国の條約上の権利であると主張したものを中国側によつて侵害されたことについて、日本側は非常に不満を述べた。

(E-48)

一九一七―一九二〇年の連合諸国のロシアに対する干渉

 第一次世界大戦は、日本に対して、アジア大陸におけるその地位を強化する機会を再び与えた。ロシア革命は一九一七年に起つた。一九一八年に、日本は連合諸国の取極めに参加したが、この取極めによつて、ロシア軍が後になつて必要とするかもしれない軍需品を守り、ロシア国民の自己防衛の組織を助け、かつシベリアにいたチエツコスロヴアキア軍の撤退を援助するために、一国からの兵力が七千名を越えない程度で、軍隊をシベリアに派遣することになつた。

一九二五年の日ソ北京條約

 日ロ関係は、一九二五年一月二十日に北平で調印されたところの、日本とソビエト社会主義共和国連邦との関係を定める基本的規則に関する條約の締結によつて、結局は一時安定を見た。この條約は、起訴状に挙げられた本件に関連のある全期間を通じて日本を拘束していた。(附属書B―五)。この條約の締結によつて、当事国は厳粛に次の点を確認した。すなわち、

(一)両締約国は、たがいに平和と友好の関係を維持すること、自国の管轄権内で自由に自国の生活を定めるという国家として当然の権利を充分に尊重すること、並びに、公然または秘密の行為であつて、いやしくも締約国の領域のいずれかの部分で秩序と安全を危うくするおそれのあるものは、みずからもこれを行わず、自国のために何かの政府の任務にある一切の人と自国から何かの財的援助を受けている一切の団体とにも行わせないことが、締約国の希望と意向であること。
(E-49)
(二)いずれの締約国も、その管轄権のもとにある地域で、(イ)他方の領域のいずれかの部分にとつて、その政府であると称する団体または集団と存在を、(ロ)その団体もしくは集団のために政治上の活動を現に行つていると認られるような外国の臣民または市民の存在を許さないこと。並びに、
(三)両締約国の一方の臣民または市民は、他方の領域内に入り、施行し、居住する完全な自由を有すること、また、身体と財産に対して常に完全な保護を享有するとともに、右の領域内で通商、航海、産業及びその他の平和的業務に従事する権利と自由を享有すること。

一九一九年の講和條約

 第一次世界大戦は、一九一九年六月二十八日に、ヴエルサイユで、同盟及び連合国を一方とし、ドイツを他方として講和條約が調印されるとともに、その終りを告げた。(附属書B―六)。一九二〇年一月十日に、ドイツの批准書が寄託されるとともに、この條約は効力を発生した。同盟及び連合国は、主たる同盟及び連合国と二十二の他の国から成つていて、その中には、中国、ポルトガル及びタイ国が含まれていた。主たる同盟及び連合国というのは、この條約の中に、アメリカ合衆国、イギリス帝国、フランス、イタリア及び日本と記されている。(E-50)この條約は、アメリカ合衆国、ソビエツト社会主義共和国連邦及びオランダを除いて、日本及び起訴状を提出した各国によつて、またはそれらの名において批准された。
 ヴエルサイユ條約には、他のいろいろのことと共に、次のことが含まれている。(一)国際連盟規約、これは條約の第一部であつて、第一條ないし第二十六條から成つている。(二)ドイツがその海外属地に関する一切の権利及び権限を主たる同盟及び連合国のために放棄したこと、これは第百十九條である。(三)放棄された従前のドイツ領の統治に関する委任規定、これは第二十二條である。(四)窒息性、毒性その他の瓦斯の使用を禁止する宣言、これは第百七十一條である。(五)一九一二年一月二十三日にヘーグで調印された阿片條約の批准、並びに阿片とその他の危険な薬品の取引に関する協定に対する連盟の一般的監督に関する諸規定、これは第二百九十五條及び第二十三條である。
 起訴状に挙げられた本件に関連のある全期間を通じて、日本はヴエルサイユ條約の一切の規定によつて拘束されていた。但し、その政府が連盟から脱退する意思を一九三三年三月二十七日に規約第一條の規定に従つて通告したことによつて、日本がこの條約に基く義務を免れたと認められる場合は、この限りでない。この脱退は、一九三五年三月二十七日までは効力を発生しなかつた。また、この條約の残りの規定には、影響を及ぼさなかつた。

国際連盟規約

 ヴエルサイユ條約を批准することによつて、日本は国際連盟規約を批准し、連盟の一員となつた。二十八に上る他の諸国も、規約を批准することによつて、同様に連盟国になつた。(E-51)これらの諸国の中には、アメリカ合衆国、ソビエツト社会主義共和国連邦及びオランダを除いて、起訴状を提出した諸国が全部含まれていた。もつとも、オランダと他の十二カ国は、講和條約に調印しなかつたが、規約には最初から加入し、ソビエツト社会主義連邦も後になつて連盟国になつた。同一の時期ではないが、六十三カ国が規約に加入して連盟国になつていた。
 この規約の條項に基いて、他のいろいろなことと共に、日本は次の諸点に同意した。

(一)平和維持のために、国の安全に支障のない最低限度まで、軍備を縮小する必要があること、並びに、軍備に関して充分で隔意のない報道を交換することによつて、この縮小に日本が協力すること。
(二)日本は一切の連盟諸国の領土保全と当時存在していた政治的独立とを尊重すること。
(三)他の連盟国との間に紛争が発生した場合には、日本はその事件を連盟理事会または仲裁裁判に付託し、また仲裁裁判官の判決または連盟理事会の報告後三月を経過するまで戦争に訴えないこと。
(四)もし日本がこの規約に反して戦争に訴えた場合には、日本は当然に他のすべての連盟国に対して戦争行為をなしたものと見なされること。及び、
(五)連盟国の締結する一切の国際協定は、連盟事務局に登録されるまで、その拘束力を生じないこと。
(E-52)

 戦争の結果として、戦敗諸国の主権から離れた殖民地及び領土であつて、当時まだ自立することのできなかつたものについては、日本は次の点に同意した。

(一)その住民の福祉及び発達をはかることは、神聖な使命であること。
(二)これらの植民地及び領土は、連盟に代つて委任に基いて施政が行われるために、先進国の後見のもとに置かれること。
(三)委任統治領土においては、築城または陸海軍根拠地の建設が禁止されること。及び、
(四)他の連盟国の通商と貿易に対して、均等の機会を確保すること。

太平洋諸島の委任統治

 ヴエルサイユ條約に言う主たる同盟及び連合国、すなわちアメリカ合衆国、イギリス帝国、フランス、イタリア及び日本のために、ドイツはその海外属地に関する一切の権利及び権原を放棄した。アメリカ合衆国は、この條約を批准しなかつたが、同国の旧ドイツ領土に関するすべての権利は、一九二一年八月二十五日に調印されたアメリカ合衆国とドイツとの間の條約で確認された。前記の四国、すなわちイギリス帝国、フランス、イタリア及び日本は、一九二〇年十二月十七日に、国際連盟規約の條項にもとずいて、若干の追加規定に従つて太平洋中赤道以北にある旧ドイツ領の諸群島の施政を行う委任を、日本に付与することに同意した。(E-53)これらの規定の中には、次のようなものがあつた。

(一)日本は委任統治諸島内において奴隷の売買を禁止し、かつ強制労働を許さないようにすること、及び
(二)これらの諸島において、陸海軍根拠地または築城を建設しないこと。
日本はこの委任を受諾し、前記の諸島を占有し、委任統治地の施政を始めた。それによつて、起訴状に挙げられた本件に関連した全期間を通じて、連盟規約と一九二〇年十二月十七日の協定に定められた委任統治條項に拘束されることになり、また実際に拘束されていた。

一九二二年の日米委任統治條約

 合衆国は、旧ドイツ領諸島に対する日本の委任統治に同意は与えなかつたが、この諸島に利害関係をもつていたので、日本とアメリカ合衆国は一九二二年にワシントンでこの問題について交渉を始めた。一九二二年二月十一日に條約がまとまり、両国はこれに調印した。(附属書B―七)。批准書は一九二二年七月十三日に交換され、それによつて、日本と合衆国は、起訴状に挙げられた全期間を通じて、この條約に拘束されていた。いわゆる主たる同盟及び連合国によつて認められた委任統治條項を列挙した後に、この條約は、他のいろいろなこととともに、次のように規定した。すなわち、

(一)アメリカ合衆国は連盟国ではないが、前記の委任統治協定の第三條、第四條及び第五條に規定する利益を受けること。
(二)この諸島にある米国人の財産権は尊重されること。
(E-54)
(三)日本と合衆国との間の既存の諸條約は、この諸島に適用されること。及び
(四)日本は国際連盟理事会に提出する委任統治に関する年報の複本を合衆国に送付すること。
この條約の批准書の交換の日に、日本政府が合衆国政府に手交した通牒の中で、これらの島及び水域に寄港するアメリカの国民と船舶に対して、日本は通常の礼譲を尽すことを合衆国に保障した。

ワシントン会議

 一九二一年の冬と一九二二年の春に、ワシントン会議で数々の條約と協定が結ばれた。この会議は本質的には軍備縮小会議であつて、その目的は、海軍軍備競争をやめることによつてばかりでなく、平和特に極東の平和を脅かしている他のいろいろな面倒な問題を解決することによつて、世界における平和の責任感を促進することであつた。これらの諸問題はすべて相互に関連したものである。

一九二一年の四国條約

 太平洋方面における島である属地及び島である領地に関して、アメリカ合衆国、イギリス帝国、フランス、及び日本の間に締結された四国條約は、ワシントン会議で結ばれた諸條約の一つであつた。(附属書B―八)。この條約は一九二一年十二月十三日に調印され、日本とその他の調印国によつて正式に批准されたのであつて、起訴状に挙げられた全期間を通じて、日本を拘束していた。この條約で、他のいろいろなことと共に、日本は次の諸條項に同意した。すなわち、

(E-55)
(一)日本は太平洋方面にある他の締約国の島である属地及び島である領地に関する権利を尊重すること、及び
(二)太平洋問題に起因して前記の権利に関する紛議が起り、外交手段によつて解決することができず、しかも調印国の間に現に存在している円満な協調に影響を及ぼすおそれのある場合には、日本はその事件全部を考量し、調整するために、共同会議に他の締約国を招請すること。

  この條約が調印された日に、締約国は、この條約を太平洋における委任統治諸島に適用することが、かれらの意図であり、了解であるという意味の共同声明を発した。(附属書B―八―a)。
 ワシントン会議で、四国條約の調印国は、一九二二年二月六日に追加協定を締結したが(附属書B―八―b)、これには次のことが規定されていた。すなわち、

『前記の條約(四国條約)に使用された「島嶼である属地及び島嶼である領地」という語は、これを日本に適用するにあたつては、単にサガレン島の南部、台湾及び澎湖列島並びに日本の委任統治のもとにある諸島だけを含むものとする。』

オランダとポルトガルに対する四国の保証

 一九二一年十二月十三日の四国條約を締結した上で、その趣旨に反する結論の生れる余地をなくすことを望み、この條約の調印国は、日本を含めて、それぞれ、太平洋方面にあるオランダの属地とポルトガルの属地に関する両国の権利を尊重することを保証するという同文声明を、右の両国政府に送付した。(附属書B―八―c)(附属書B―八―d)。
(E-56)

ワシントン海軍軍縮條約

 ワシントン会議で調印された相互に関係のある諸條約中のもう一つは、海軍軍備制限に関する條約であつた。(附属書B―九)。この條約は一九二二年二月六日にアメリカ合衆国、イギリス帝国、フランス、イタリア及び日本によつて調印され、後にこれらの各国によつて批准された。日本は一九三四年十二月二十九日にこの條約を廃棄するという通告を行い、それによつて、一九三六年十二月三十一日に、その拘束から解放されることになつたが、それ以前は、この條約は起訴状に述べられた本件に関連のあるすべての期間にわたつて、日本を拘束していた。この條約の前文には、締約諸国は『平和ノ維持ニ貢献シ且軍備競争ノ負担ヲ軽減セムコトヲ望ミ、』同條約を締結したのであると述べられている。しかし、この條約の調印を促す條件として、いくらかの附帯事項が協定され、これらの協定が條約の中に入れられた。合衆国、イギリス帝国及び日本は、次に掲げる各自の領土と属地において、要塞と海軍根拠地に関し、この條約署名の時における現状を維持すべきことを約定した。すなわち、(一)合衆国が太平洋において現に領有し、または将来取得するかもしれない島嶼である属地。但し、(イ)合衆国、アラスカ及びパナマ運河地帯の海岸に近接する島嶼(アリユーシアン諸島を含まず)、並びに(ロ)ハワイ諸島を除く。(ニ)香港及びイギリス帝国が東経百十度以東の太平洋において現に領有し、または将来取得するかもしれない島嶼である属地。(E-57)但し、(イ)カナダ海岸に近接する島嶼、(ロ)オーストラリア連邦とその領土、並びに (ハ)ニユージーランドを除く。(ニ)太平洋における日本国の次の島嶼である属地。すなわち、千島諸島、小笠原諸島、奄美大島、琉球諸島、台湾及び澎湖諸島並びに日本国が将来取得するかもしれない太平洋における島嶼である属地。この條約は、前記の現状維持とは、右に掲げた領土と属地において、新しい要塞または海軍根拠地を建設しないこと、海軍力の修理と維持のために現存する海軍諸設備を増大する処置をとらないこと、並びに右に掲げた領土と属地の沿岸防禦を増大しないことを言うと明記した。
 締約諸国は、條約に挙げられている主力艦だけを保有することに同意した。アメリカ合衆国は、戦艦建造における優越的な首位を放棄し、また合衆国とイギリス帝国は、條約に挙げられている若干の戦艦を廃棄することに同意した。各調印国に対して、主力艦の排水総トン数の最大限度が定められ、各国はこの限度を超えないことに同意した。同じような制限が航空母艦にも加えられた。主力艦に装備される砲は口径十六インチを超えないこと、航空母艦に装備される砲は口径八インチを超えないこと、またその後に起工されるどの調印国のどの軍艦でも、主力艦を除いては、口径八インチ以上の砲を装備しないことになつていた。

(E-58)

九国條約

 さらにもう一つの條約がワシントン会議で調印された。この條約を無視すれば、この会議で締結された一団の協定が全体として達成し、実現しようとしたところの、一般的な了解と均衡関係をかき乱すことになる。ワシントン会議に出席した九カ国は、同会議で締結された他の諸條約とともに、次の目的を達成するために、一つの條約を結んだ。その目的というのは、極東の事態を安定させ、中国の権利と利益を護り、機会均等の基礎の上に中国と他の諸国との間の交通を促進するための政策を採用することを希望するということであつた。この條約は、次の諸国によつて、一九二二年二月六日に調印され、後に批准された。それはアメリカ合衆国、イギリス帝国、ベルギー、中国、フランス、イタリア、日本、オランダ、ポルトガルである。(附属書B―一〇)。この條約は起訴状に述べられた本件に関連のあるすべての時期にわたつて、日本を拘束していた。
 この條約を締結することによつて、他の締約諸国と同様に、他のいろいろなことと共に、日本は次のことに同意した。

(一)中国の主権、独立、その領土的と行政的の保全の尊重すること。
(二)中国がみずから有力で安定した政府を確立維持するために、中国に対して、最も完全で最も障礙のない機会を与えること。
(三)中国の領土全体にわたつて、あらゆる国の国民の商工業に対する機会均等主義を有効に樹立し、維持するために尽力すること。
(E-59)
(四)友好国の臣民または市民の権利を滅殺するような特別の権利または特権を求めるために、中国の情勢を利用することや、この友好国の安全に害のある行動を是認することを行わないこと。
(五)前記の諸原則にそむき、またこれを害するような條約、協定、取極めまたは了解を他の一国または数国との間に締結しないこと。
(六)中国のどこか特定の地域で、商業上または経済上の発展に関して、自己の利益のために一般的優越権利を設定することになるかもしれない取極め、並びに中国で適法な商業もしくは工業を営む権利を、またはどのような公共企業でも、これを中国政府もしくは地方官憲と共同経営する権利を、他国の国民から奪うような、または機会均等主義の実際的適用を無効にしてしまうと認められるような、独占権または優先権を求めることをせず、また自国民がそれらのものを求めるのを支持することもしないこと。
(七)中国の特定地方に勢力範囲を創設しようとしたり、または相互に排他的な機会を与えようとしたりする目的で、自国民が自分たちの間でつくる協定はどのようなものでも支持しないこと。
(E-60)
(八)中国の中立を尊重すること。並びに
(九)締約国のある一国が、この條約の規定の適用を必要とするある事態が発生したと認めたときは、いつでも、他の締約諸国と充分な、隔意のない交渉をすること。

 このようにして、中国における門戸開放政策を実行するために、諸国は正式な、厳粛な條約に同意した。日本はこの條約に同意し、調印し、またそれを批准したばかりでなく、ワシントン会議における日本の全権委員は、日本がこの條約中に定められた諸原則に双手を挙げて賛同するものであると声明した。右の全権は、次のような言葉を用いた。

『何人も支那に対してその神聖な自治の権利を否定するものではない。支那がその偉大な国運を達成しようとすることに対して、何人も妨害するものではない。』

一九一二年の阿片條約

 本件の争点に関連があり、また特に日本と中国の関係に適用されるところの、もう一つの重要な條約に日本は加入した。この條約は、ヘーグにおける国際阿片会議において、一九一二年一月二十三日に調印された阿片その他の麻薬濫用防遏に関する條約及び最終議定書である。(附属書B―一一)。この條約は、ソビエツト社会主義連邦を除いて、日本及び起訴状を提出した諸国によつて、またはそれらの名において、調印され、批准されたものであつて、起訴状に述べられた本件に関連のあるすべての時期にわたつて、日本はこの條約に拘束されていたのである。(E-61)この條約はまた他の四十六カ国によつて調印され、批准され、さらに六カ国が後になつて加入したものである。阿片、モルヒネ、コカイン、並びにこれらの物資から製造または抽出された薬品で、これらと同様の害毒を引き起すもの、または引き起し得るものの濫用を次第に禁止しようとして、諸国はこの條約を締結したのであつた。他の締約諸国とともに、日本は次の諸点に同意した。

(一)日本はこれらの薬品の製造、取引及び使用を次第に、または有効に禁止する措置をとること。
(二)これらの薬品の輸入を禁止している国に対して、日本はそれらの輸出を禁止すること、また、これらの薬品の輸入を制限している国に対して、日本はそれらの薬品の輸出を制限し、取締ること。
(三)中国並びに中国内にあるその租借地、居留地及び専管居留地に、日本はこれらの薬品が密輸入されることを禁止するための措置をとること。
(四)中国政府と同一の歩調をもつて、日本は中国内にあるその租借地、居留地及び専管居留地におけるこれらの薬品の取引と濫用を禁止するための措置をとること、及び
(五)これらの薬品の販売と分配を取締るために、中国政府が公布した薬剤に関する法令を、日本は中国に居住する自国民に対して適用することによつて、その法令の励行に協力すること。

(E-62)

国際連盟第二阿片会議

 国際連盟の第二阿片会議は、一九二五年二月十九日の條約(附属書B―一二)を調印することによつて、一九一二年の阿片條約をさらに補足し、強化した。この條約は、阿片、コカイン、モルヒネその他の有害な薬品の不正取引と濫用を禁止するために、調印諸国の行つた全面的な努力を示すものであつた。この條約は、アメリカ合衆国、フイリツピン国、中(以下下線部分は毎日新聞社刊判決文では欠落している)国を除いて、日本及び起訴状を提出した諸国によつて、またはそれらの名において、調印され、批准された。この條約はまた四十六カ国によつて確定的に加入された。同盟及連合国は、ヴエルサイユ條約の第二百九十五條において、この條約の批准は一九一二年一月二十三日の阿片條約の批准と見做されることを規定している。ヴエルサイユ條約の第一章にある国際連盟規約は、その第二十三條において、阿片その他の有害薬物の取引に関する諸協定の実施について、それに対する一般的監視を、連盟国が今後は連盟に委託することを規定した。第二阿片会議は、これらの規定に応じて開催されたものであつて、一九二五年二月十九日の條約は、阿片その他の薬品の濫用を禁止するために、連盟常設中央委員会の組織と運用に関する規定を設けた。さらに、その他の調印諸国と同様に、他のいろいろなことと共に、日本は次の諸点に同意した。

(一)阿片の生産、分配及び輸出に対する有効な取締を確保するために、また、この條約中に指定されている阿片その他の薬品の製造、輸入、販売、分配、輸出及び使用をもつぱら医薬と学術用に制限するために、日本は法令を制定すること、及び
(E-63)
(二)この條約に指定されている薬品の生産、製造、原料、消費、没収、輸入、輸出、政府用消費、その他に関して、日本はできるだけ完全で正確な前年度の統計を毎年連盟中央委員会に送付すること。

 日本の枢密院は、一九三八年十一月二日に、この連盟中央委員会との協調を打ち切ることを決定した。この決定の理由は、中国に対する侵略戦争であると連盟が非難した日本の行動を阻止するために、規約に基いて日本に制裁を加える権限を連盟が連盟諸国に与えたということであつた。この決定の通告は、右の日に国際連盟事務総長に送付された。

一九三一年の阿片條約

 麻薬の製造制限及び分配取締に関する條約として知られている第三の條約は、一九三一年七月十三日に、ジユネーヴで調印された。(附属書B―一三)。この條約は、日本及び起訴状を提出した各国並びにその他の五十九カ国によつて、またはそれらの名において、調印され、批准され、または加入されたものである。この條約は、前述の一九一二年と一九二五年の阿片條約に対する補足であり、またそれらをさらに有効なものにするためのものであつた。(E-64)他の締約諸国とともに、日本は次の諸点に同意した。

(一)この條約に含まれている各薬品について、この條約の適用される自国の各領域に関して、この條約によつて許可されている医療用及び学術用並びに輸出に必要な薬品の数量を明記したところの、連盟中央委員会に送付すべき、見積を、日本は毎年提出すること。
(二)日本は、前述のどの領域でも、またどの一年間でも、どの薬品についても、前述の見積に記載された数量以上に製造することを許可しないこと。及び
(三)この條約の規定に従わない限り、どの薬品も締約国の領域に輸入され、またはその領域から輸出されないこと。

交戦法規

 国家が交戦状態に入る場合と、交戦状態にある間の国家の行動に関する法規は、起訴状が取扱つている期間に先だつ二十カ年を通じて、また一九二八年と一九二九年に、繰返して確認された。一九〇七年のヘーグにおける第二回平和会議の結果として、十三の條約と一つの宣言が成立した。これらはすべて一九〇七年十月十八日に調印された。(E-65)侵略戦争を不法であるとしたケロツグ・ブリアン條約(パリー條約)は、一九二八年八月二十七日にパリーで調印された。それから、一九二九年七月二十七日には、二つの重要な條約がジユネーヴで調印された。すなわち、俘虜の待遇に関する條約と戦地軍隊における傷者及び病者の状態改善に関する條約とがそれである。これらの協定は、単に締約国に対して條約から直接生ずる義務を負わせるだけでなく、さらに慣習法を一層適確に示している。一九〇七年十月十八日にヘーグで調印された條約の中のあるものの有効性は、直接に條約に基く義務としては、條約中にいわゆる『総加入條款』が挿入されているために、著しく害せられた。総加入条款というのは、すべての交戦国がその條約の当事者であるときに限つて、條約は拘束力をもつというのである。この條款の厳密な法律上の効力は、どんなに重要でない国であつても、非締約国が戦争の当初からか、または戦争の途中で、交戦国の列に加わるや否や、直接に條約に基く義務としての拘束力を、その條約から奪うということにある。右の條約の規定を拘束力のある條約として遵守する義務は、『総加入條款』の作用によつて、またはその他の事情で、一掃されるかもしれないけれども、右の條約は依然として慣習国際法のりつぱな証拠であり、与えられた事態に適用されるべき慣習法を決定するにあたつて、他のすべての入手し得る証拠とともに、本裁判所が考慮に入れるべきものである。

ヘーグ第一條約

 一九〇七年にヘーグ会議で定められた第一條約は、国際紛争平和的処理條約であつた。(附属書B―一四)。(E-66)この條約は、日本及び起訴状を提出した諸国によつて、またはそれらの名において、調印され、グレート・ブリテン、オーストラリア、カナダ、インド及びニユージーランドを除いて、右の諸国の全部によつて、またはそれらの名において、批准された。そのほかの二十一カ国も同様にこの條約に調印し、批准し、さらに五カ国は後に至つて加入した。起訴状を提出した諸国であつて、この條約を批准しなかつた国は、日本との関係に関する限り、一八九九年七月二十九日にヘーグで調印された国際紛争平和的処理條約によつて、依然として拘束されていた。その理由は、この後の條約が日本と右の各国によつて、またはそれらの名において調印され、批准されたからである。この標題をもつている條約のどちらも、『総加入條款』を含んでいなかつた。従つて、これらの條約は、起訴状に述べられた本件に関連のあるすべての時期にわたつて、直接に條約に基く義務として、日本を拘束していた。他の締約国と等しく、他のいろいろなことと共に、日本は次のことに同意した。

(一)他の諸国との関係において、武力に訴えることをなるべく避けるために、日本は国際紛争の平和的処理を確保するのに全力をつくすこと、及び
(二)重大な意見の衝突または紛争を生じた場合において、武力に訴える前に、日本はその友好国中の一国または数国の斡旋または仲介に依頼すること。

ケロツグ・ブリアン條約

 一九二八年八月二十七日にパリーで調印されたケロツグ・ブリアン條約、すなわちパリー條約は、侵略戦争を不法であるとし、かつ、国際紛争の平和的処理に関する一九〇七年十月十八日のヘーグ第一條約によつて明示された法を再述した。(附属書B―一五)。(E-67)この條約はソビエツト社会主義共和国連邦、中国及びオランダを除いて、日本及び起訴状を提出した諸国によつて、またはそれらの名において、調印され、批准された。日本はこの條約を一九二九年七月二十四日に批准し、中国は一九二九年五月八日にこの條約に加入した。オランダは一九二九年七月十二日にこの條約に加入し、ソビエツト社会主義共和国連邦は一九二八年九月二十七日に加入した。従つて、日本と起訴状を提出した各国とは、一九二九年七月二十四日までに、この條約に確定的に加入していた。その上に、他の八カ国がこの條約に調印し、批准していた。ある時期には、さらに四十五カ国がこれに加入していた。この條約は、起訴状に述べられた本件に関連のあるすべての時期にわたつて、日本を拘束していた。
 日本を含む締約国は、国際紛争を解決するために戦争に訴えることを不法とし、またその相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを宣言した。
 次に、締約国は、相互間に起るかもしれない一切の紛争または紛議は、その性質または起因がどのようなものであつても、平和的手段による以外には、その処理や解決を求めないことを約した。
 この條約の批准に先だつて、締約国のあるものは、自衛のために戦争を行う権利を留保し、この権利のうちには、ある事態がそのような行動を必要とするかどうかを、みずから判断する権利を含むと宣言した。(E-68)国際法にせよ、国内法にせよ、武力に訴えることを禁じている法は、必ず自衛権によつて制限されている。自衛権のうちには、今にも攻撃を受けようとしている国が、武力に訴えることが正当であるかどうかを、第一次的には自分で判断するという権利を含んでいる。ケロツグ・ブリアン條約を最も寛大に解釈しても、自衛権は、戦争に訴える国家に対して、その行動が正当かどうかを最終的に決定する権限を与えるものではない。右に述べた以外のどのような解釈も、この條約を無効にするものである。本裁判所は、この條約を締結するにあたつて、諸国が空虚な芝居をするつもりであつたとは信じない。

ヘーグ第三條約

 一九〇七年のヘーグ会議で諸国が締結したヘーグ第三條約は、開戦に関する條約であつた。(附属書B―一六)。この條約は、中国を除いて、日本及び起訴状を提出した諸国によつて、またはそれらの名において、調印され、批准された。しかし、中国は一九一〇年にこの條約に加入した。ポルトガルとタイを含む合計二十五カ国がこの條約に調印し、批准した。後に至つて、六カ国がこれに加入した。この條約は『総加入條款』を含んでいない。この條約には、締約国中の二国または数国間の戦争の場合に効力をもつと規定している。この條約は、起訴状に述べられた本件に関連のあるすべての期間にわたつて、日本を拘束していた。この條約を批准することによつて、他のいろいろなことと共に、日本は次のことに同意した。

日本と他の締約国との間の敵対行為は、理由を附した宣戦布告の形式か、條件附の宣戦布告を含む最後通牒の形式において、明瞭な事前の通告によらなければ、開始してはならないこと。

(E-69)

ヘーグ第五條約

 一九〇七年のヘーグ第五條約は、陸戦の場合における中立国及び中立国人の権利義務に関する條約である。(附属書B―一七)。この條約は、グレート・ブリテン、オーストラリア、カナダ、ニユージーランド、インド及び中国を除いて、日本及び起訴状を提出した諸国によつて、またはそれらの名において、調印され、批准された。しかし、中国は一九一〇年にこの條約に加入した。タイ及びポルトガルを含む合計二十五の国家がこの條約に調印し、批准した。後になつて、三カ国がこれに加入した。この條約に調印したグレート・ブリテンとその他の十六カ国は、これを批准していない。

 この條約は、ヘーグ諸條約のうちで、『総加入條款』を含む條約の一つである。この條約は、一九四一年十二月八日にグレート・ブリテンが参戦したときに、直接に條約に基く日本の義務としては、こんどの戦争に適用されなくなつたけれども、依然として慣習国際法のりつぱな証拠であり、与えられた事態であつて、この條約に規定された諸原則が適用できるようなものについて、そこに適用される慣習法が何かということを決定するにあたつては、他のすべての入手し得る証拠とともに、考慮に入れられるべきものである。
この條約によつて、他のいろいろなことと共に、日本は次のことに同意した。

(一)中立国の領土は不可侵であること。
(二)交戦国が、軍隊または弾薬その他軍需品の輸送隊を、中立国の領土を通つて動かすことを禁ずること。及び
(三)兵器、弾薬、その他一般に軍隊または艦隊の役に立つ一切の物を、交戦国の一方または他方のために、輸出または輸送することを、中立国は阻止する必要がないこと。

(E-70)

ヘーグ第四條約

 一九〇七年のヘーグ第四條約は、陸戦の法規慣例に関する條約である。(附属書B―一八)。陸戦の法規慣例に関する規則は、右の條約に附属し、その一部であるとされた。(附属書B―一九)。この條約は、中国を除いて、日本及び起訴状を提出した諸国によつて、またはそれらの名において、調印され、批准された。タイとポルトガルを含むその他の十九カ国もこの條約に調印し、批准した。後になつて、他の二カ国がこれに加入した。
 この條約は、ヘーグ諸條約の中で、『総加入條款』のついている他の一つの條約である。この條款についてわれわれがすでに述べたことは、ここでも、同じように適用される。
 この條約の前文に述べられているように、締約国は、どんなに極端な場合でも、戦争の害悪を減らすことによつて、人類の福利と文明の要求に副うという要望に動かされ、交戦者の行動の一般的準則としての役目を果させようとして、この條約及びそれに附随するこの規則を採択したのである。実際に起りそうな場合のすべてにわたつて適用すべき規定を、その際に協定しておくことは不可能であると認めて、各国は次のように宣言した。予見できない場合を軍隊指揮者の独断に委せてしまうのは締約国の意思ではないこと、一層完全な法典ができるまでは、この規則に含まれていない場合には、一般住民と交戦員は、依然として文明諸国の慣習、人道の法則及び公共の良心の要求から生ずる国際法の保護と原則のもとにあること。
(E-71)
 この條約によつて、その他のいろいろなことと共に、日本は次のことに同意した。

(一)捕虜は敵の政府の権力内に属し、これを捕えた個人または部隊の権力内に属しないこと、捕虜は人道的に取扱われなければならないこと、捕虜が持つているものは、兵器、馬及び軍用書類のほかは、依然としてその所有物であること。
(二)交戦国の軍隊に属する者は、戦闘員であるか、非戦闘員であるかにはかかわりなく、捕えられた場合に、捕虜として取扱われること。
(三)将校以外は、捕虜の労働を使用することができるが、その労務は過度のものでなく、また一切作戦行動に関係しないものであること、捕虜の行つたすべての仕事に対しては、支払いをすること。
(四)交戦国間に特別な協定がないときには、糧食、宿舎及び被服に関して、捕虜はこれを捕えた軍隊と対等な取扱いを受けること。
(五)自国の権力内にある捕虜は、自国の軍隊で行われている法規に従うものであり、またその利益を受ける権利があること。
(六)日本は敵対行為の開始とともに情報局を設置すること、情報局は捕虜に関する一切の問合せに答えることを任務とし、各捕虜に関して現在までの銘銘票を作成し、その票に捕虜に関する一切の必要な重要事項その他の有用な情報を記載すること。
(E-72)
(七)捕虜のための救恤団体に対して、その人道的事業を円滑に遂行するために一切の便宜を与え、その代表者は救恤その他の行うために収容所に出入を許されること。
(八)次のことを禁ずること。(イ)毒または毒を施した兵器を使用すること。(ロ)敵国または敵軍に属する者を奸計をもつて殺し、または傷つけること。(ハ)兵器を捨て、またはもはや防禦手段を失つて、自発的に降服した敵を殺し、または傷つけること。(ニ)助命しないという宣言をすること。(ホ)白旗、敵の国旗、軍用の標章、制服、またはジユネーヴ條約の特殊記章を濫りに使用すること。または、(ヘ)戦争の要求上どうしても必要な場合のほか、敵の財産を破壊し、または押収すること。
(九)包囲及び砲撃をするにあたつては、宗教、芸術、学術及び慈善のために用ひられる建物、歴史上の紀念建造物、病院並びに病者及び傷者の収容所が損害を免れるように、必要な一切の手段をとること。
(E-73)
(十)都市その他の地域は、突撃によつて攻め取つた場合でも、これを掠奪することを禁ずること。及び
(十一)戦争中家族の名誉と権利、個人の生命、私有財産及び宗教上の信仰と慣行を尊重すること。

ジユネーヴ俘虜條約

 俘虜の待遇に関する條約は、一九二九年七月二十七日に、ジユネーヴで調印された。(附属書B―二〇)。四十七カ国がこの條約に調印し、三十四カ国がこれを批准するか、またはこれに加入した。オーストラリア、中国及びソビエツト社会主義共和国連邦を除いて、起訴状を提出した諸国によつて、またはそれらの名において、この條約は調印され、批准された。
 日本は全権委員を送り、この委員は会議に参加して條約に調印した。しかし、一九四一年十二月七日における開戦の前には、日本はこの條約を正式に批准していなかつた。しかし、一九四二年の初めに、合衆国、イギリス及びその他の諸国は、かれらがこの條約を遵守することを日本に申出で、この條約に対する日本の態度に関して、日本から保証を求めた。日本の外務大臣は被告東郷であつたが、かれを通じて、日本は関係諸国に対して、日本はこの條約によつて正式に拘束されてはいないが、アメリカ、ブリテン、カナダ、オーストラリア及びニユージーランドの捕虜に対して、『必要な変更を加えて』この條約を適用すると言明し、保証を与えた。この保証によつて、この保証が与えられた当時存在することが関係諸国に知られていた特別の事情のために、その條項に文字通りに従うことができない場合を除いて、日本はこの條約に従う義務を負うことになつた。(E-74)右の特別な場合には、文字通りの遵守にできるだけ近いものを適用する義務を日本は負つていた。この保証の効果は、この判決で、追つてさらに詳しく考察することにする。
 この條約は、一九〇七年十月十八日に締結された陸戦の法規慣例に関するヘーグ條約の締約国が考えていた『一層完全ナル戦争法規ニ関スル法典』である。この條約は、その條項によつて、右のヘーグ條約に附属している「規則」の第二章と考えるべきであると規定している。この條約は、『総加入條款』は含むことなく、かえつて、交戦国の一がこの條約の当事者でない場合でも、この條約の規定はこれに参加した交戦国の間に拘束力があるという規定を含んでいる。
 この條約は、他のいろいろなことと共に、次のことを規定している。

(一)捕虜は敵国の権力内に属し、これを捕えた個人または部隊の権力内に属さないこと。捕虜は人道的に取扱われなければならず、また暴行、侮辱及び公衆の好奇心に対して特に保護されなければならないこと。捕虜はその人格及び名誉を尊重される権利があること。女は女性に対する一切の斟酌をもつて待遇されること、及びすべての捕虜は捕獲国が給養を与えること。
(E-75)
(二)捕虜はなるべく速やかに戦闘区域から離れた収容所に移すこと。しかし、徒歩によつて移す場合は、必ず一日二十キロメートルの旅程で行うこと。但し、水と食糧に到達する必要から、一層長い旅程を必要とする場合には、この限りではない。
(三)捕虜は抑留することができる。但し、やむを得ない保安または衛生上の手段としてのほかには、これを禁足または投獄することはできない。不健康な地または気候において捕えられた場合には、もつと良好な気候の地に移されること。収容所の清潔と保健を確保するためのすべての衛生的措置を講ずること。捕虜の一般の健康状態を確保するために、医学上の検査が少くとも月に一回は行われること。食糧に関する団体的懲罰手段は禁止すること。食糧はその量と質において主要基地部隊と同一であること。捕虜は追加食糧を自分で調理するための設備と、充分な飲料水とを供給されること。捕虜には被服、敷布類及び靴を支給すること、並びに労働する者には作業服を支給すること。各収容所は捕虜が必要とするあらゆる性質の手当を受ける医務室を備えること。
(四)捕虜は捕獲国のすべての将校に対して敬礼しなければならないが、将校である捕虜が敬礼しなければならないのは、捕獲国の上級または同階級の将校に対してだけであること。
(E-76)
(五)交戦国は、将校を除いて、健康な捕虜の労働を使用することができる。但し、下士官は監督の仕事だけに使われること。どの捕虜も、その体に不適当な労働には使用しないこと。捕虜の一日の労働時間は過度にならないこと。そして、各捕虜に対しては、毎週連続二十四時間の休養を与えること。捕虜を不健康な、または危険な作業に使用しないこと。また、労働分遣所は、特に衛生上の條件、食糧、医療手当等に関して、捕虜収容所と同じような取扱いをすること。捕虜には、その労働に対して賃金を支払うこと。そして捕虜の労働は、作戦行動、特に各種の兵器弾薬の製造及び運搬並びに戦闘部隊に宛てられた材料の運搬に、なんら直接の関係がないものであること。
(六)捕虜は食用または被服に供するための小包郵便物を受取るのを許されること。そして捕虜のための救恤団体がその人道的事業を有効に遂行するために、捕獲国は一切の便宜を与えること。
(七)捕虜はその抑留状態について要求をなし、また苦情を述べる権利があること。捕虜はどこにいる場合でも、抑留国の軍事官憲に対して、直接自分を代表する代表者を指定する権利があること。(E-77)右の代表者を移転させるには、かれがその後継者に進行中の事務を通じさせるに必要な時間を与えなければならないこと。
(八)捕虜は捕獲国の軍隊で行われている法律、規則及び命令には服従しなければならないが、同一の行為について、捕獲国の軍隊の軍人に対して定められた罰と異なる罰を課せられないこと。体刑、日光のはいらない場所における監禁及び一般にすべての残酷な行為を加えることを禁止し、並びに個人の作為または不作為のために、団体的な処罰を加えるのを禁止すること。
(九)脱走した捕虜で再び捕えられた者は、懲罰だけに付せられること。脱走に協力した脱走者の同僚は、懲罰だけに付することができること。
(十)捕虜に対する裁判手続の開始に際して、少なくとも審理の開始前に、捕獲国は捕虜の保護国の代表者にこれを通告すること。捕虜には弁護の機会を与えないで有罪の宣告をしないこと、訴追された行為について、捕虜はみずから有罪と認めることを強制されないこと。保護国の代表者は審理に立会う権利があること。(E-78)捕虜に対する判決は、捕獲国の軍隊に属する者を審理する場合と同一の裁判所において、また同一の手続による以外には、言渡されないこと。言渡された判決は直ちに保護国に通知されること。死刑の宣告の場合には、右の通知から三カ月経たないうちには、刑の執行をしないこと。
(十一)交戦国は重病及び重傷の捕虜を、移送できる状態に回復させた後、階級と数に関係なく、これをその本国に送り還す義務があること。
(十二)抑留中に死亡した捕虜が鄭重に埋葬されるように、また墳墓がしかるべき一切の標識をもち、尊敬され、維持されるように、交戦国は注意すること。
(十三)敵対行為の開始とともに、各交戦国は捕虜情報局を設置し、情報局は各捕虜について、一定の重要な情報を記載した銘銘票を作成保存し、また前記の情報を関係国に速やかに伝達すること。
日本はさらに交戦諸国に対して次のことを保証した。この條約を一般人抑留者に適用すること、この條約を適用するにあたつて、捕虜に被服、食料品を給与する場合には、相互條件に基いて、捕虜や一般人抑留者の国民的と人種的の風俗習慣を考慮することを保証した。

(E-79)

ジユネーヴ赤十字條約

 戦地軍隊における傷者及び病者の状態改善に関するジユネーヴ赤十字條約も、また一九二九年七月二十七日に調印された。(附属書B―二一)。この條約は、日本及び起訴状を提出した諸国並びにそのほかの三十二カ国によつて、またはそれらの名において、調印され、批准された。この條約は、直接に條約に基く義務として、起訴状に述べられた本件に関連のあるすべての期間にわたつて、日本とその臣民を拘束していた。この條約は、どんな場合にも、締約国はこれを尊重しなければならないという趣旨の規定を含んでいる。戦時において、交戦国のうちの一つがこの條約に参加していないときは、その規定は参加している交戦国の間に効力がある。
 日本及びその他の締約国は、この條約に調印し、批准することによつて、他のいろいろなことと共に、次のことに同意した。

(一)軍人及び公に軍隊に附属するその他の人員で、負傷しまたは病気にかかつたものは、どんな場合にも尊敬され、保証されること。かれらは、国籍の区別なく、これを自己の権力内に収容した交戦者によつて、人道的に待遇され、また看護されること。
(二)各戦闘の後に、戦場の占領者は、傷者や死者を捜索し、また掠奪や虐待に対してこれを保護する措置をとること。(E-80)傷者や病者で敵の権力内に陥つたものは、捕虜となり、捕虜に関する国際法の一般規則を適用されること。
(三)傷者と病者の収容、輸送及び治療に、また衛生上の部隊及び営造物の事務に、もつぱら従事する人員と軍隊附属の教法者とは、尊敬され、保護されること。これらの者は、敵の手に陥つたときでも、捕虜として取扱われないこと。また抑留されないこと。右の人員は、所有する武器や器具を持つて、直ちにその属する軍隊に送還されること。
(四)移動衛生部隊と衛生上の固定営造物は尊重し、保護されること。敵の手に陥つたときでも、傷者や病者の看護のために必要な建物、輸送機関、その他の材料を保有すること。
(五)この條約によつて尊重され、保護される権利のある人員、部隊及び営造物だけが、ジユネーヴ條約の特殊記章を掲揚することができること。及び、
(六)交戦国の軍隊の指揮官は、この條約の一般原則に従つて、前述の諸條の実施の細目と規定漏れ事項を補足すること。

(E-81)

ヘーグ第十條約

 ヘーグ会議で協定され、一九〇七年十月十八日に調印された第十條約は、一九〇六年七月六日のジユネーヴ條約の原則を海戦に適用する條約であつた。(附属書B―二二)。この條約は、グレート・ブリテン、オーストラリア、カナダ、インド並びにニユージーランドを除いて、日本及び起訴状を提出した諸国によつて、またはそれらの名において、調印され、批准された。この條約は二十七カ国によつて調印、批准された。その後に、他の五カ国がこれに加入した。この條約を批准しなかつた訴追国及び日本は、一八九九年七月二十九日にヘーグで調印された條約の参加国である。従つて、これらの諸国は、後の一九〇七年の條約にある規定の大部分を含んでいる一八九九年の條約によつて、相互に拘束されている。
 これもまた『総加入條款』を含んでいるヘーグの諸條約の一つである。従つて、非締約国が交戦国となつたときに、直接に條約に基く義務として、それは日本に適用されなくなつた。この條款に関してわれわれが述べたことは、ここにおいても、同じように適用される。
 この條約は、他のいろいろなことと共に、次のことを規定している。

(一)各戦闘の後に、双方の交戦者は難船者、傷者及び病者を捜索し、また掠奪と虐待に対して、これらの者と死者を保護する措置をとること。敵の権力内に陥つた者は、捕虜となること。抑留国は、捕獲した者の身分を証明する名簿をなるべく早くその本国に送付し、病者と傷者を看護し、死者を埋葬すること。
(E-82)
(二)病院船は尊重し、捕獲しないこと。しかし、これらの船舶は軍事目的に使用しないこと。ジユネーヴ條約の記章を表示する標識と旗を掲げることによつて、識別ができるようにすること。病院船識別のために定められた標識は、この條約によつて保護される権利のある船舶以外には、これを使用しないこと。

日本は国際社会の一員であつた

 このようにして、一九三〇年の前、多年にわたつて、日本は世界の文明社会でその一員としての地位を占めることを主張し、平和を増進し、侵略戦争を不法とし、また戦争の惨害を軽減するためにつくられた以上の義務を自発的に負つていた。被告の行為は、これらの義務に照らして観察し、判断されなければならない。